100年の長きにわたり活動を紡いできました。
民生委員制度の源は、「済世顧問」制度と「方面委員」制度にあると言われます。一方、東京では、この2つの制度に前後して、東京府慈善協会という組織が結成され、独自の取り組みとして「救済委員」を設置しました。
民生委員の始まりは、岡山県に誕生した「済世顧問」制度にあると言われます。大正天皇から県民の生活状況について質問を受けた笠井信一県知事が、県民の生活実態を調査した上で創設しました。
急速な近代化により、都市における失業者や貧困者が大きな社会問題となる中、方面委員制度が全国へ広がっていきます。
市内居住者の生活状態を調査しその改善を図ることを目的に、市長が設置区域内の篤志家を委嘱しました。各方面ごとに委員長が置かれ、毎月1回の方面委員会 を開催しました。制度発足当初は、10方面に141名が置かれていました。
要援護者は、調査の上で、方面委員長が市の社会局長に報告し、救護が行われた後も適宜報告されました。また、緊急を要する場合には、定められた範囲内で、委員が直接救助を行うことができました。
その後、東京市の方面委員の設置拡大により、大正11年、救済委員の活動は、方面委員に一本化されることとなりました。
戦後の苦難の時代を経て、経済成長とともに増大する福祉ニーズに対応した各種制度が整備され、委員活動が広がっていきました。
民生委員へと改称し、対象も民生全般へと広がりました(方面委員令廃止)。都道府県知事から厚生大臣委嘱へと変わり、推薦委員会が設置されました。同年公布された、生活保護法でも、民生委員は補助機関として位置付けられました(救護法は廃止)。
民生委員の位置づけは補助機関から協力機関に変更されました。
昭和30年代には、全国的に心配ごと相談所の設置促進が図られました。しかし東京では相談は委員本来の活動で日常的に行っており、また、都内は専門相談機関が充実しているとの理由から積極的な立場は取らず、各地区社協による任意実施として進められました。
住民のニーズが多様化し、制度やサービスの負担増から福祉見直し・構造改革が進み、地域福祉が推進されるようになりました。
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