民生児童委員の想いをお伝えします。
東京都民生児童委員連合会 副会長
小平市民生委員児童委員協議会 会長
もともと母親が民生児童委員をしていたんです。今の私の地区の前任者も、母から声を掛けられ委員になった方で、そんな縁からずっと民生児童委員にと誘われていました。それまでは子育てやPTA活動に忙しくしていましたが、下の子が高校を卒業して数カ月経ち、ひと段落というタイミングでバトンを受け継ぐことにしました。
委員活動について、母からはよく厳しい意見をもらいましたね。母が活動していた昭和30年ごろは現在のような行政サービスが整ってなく、民生児童委員の役割も貧困救済が主だったのでしょうか、我が家はいつも生活保護担当のケースワーカーさんの情報交換の場になっていたようでした。
そのような状況の中で、生活保護を申請しても支給されるまでに日数がかかっていましたので、その間の生活をつなぐ緊急小口資金の支給を始めるため、制度の運営母体として市内の委員36名が発起人となり小平市社会福祉協議会を立ち上げました。そのため一軒一軒、会費のお願いをして回っていたのを覚えています。
また印象深い出来事としてDV(家庭内暴力)から逃げてきた人を、事態が落ち着くまで泊めていたことや、母親が亡くなった小学校2年生の女の子を預かって、私と一緒の部屋で寝起きしていたことなどがあります。母は、その子が結婚するまで文通を続けていたようですが、委員となった今では、そのやりとりが彼女の生きる支えになっただろうと分かりますね。
母の時とは世相が違いますが、私も委員として様々な事例に出会いました。記憶に残っているものに、統合失調症の娘さんと同居する家族を支援したケースがあります。娘さんは高校卒業後、就いた仕事を1年で辞め、家から出られず病気の症状に苦しんでいたそうで、その母親は14年もの間、一人で何とかしようとしましたが、どうにもなりませんでした。ある時、娘の国民年金保険料の免除申請について、その母親が相談に来たことがきっかけで状況がわかり、関わるようになりました。保健師の相談を受けるまでには実に9カ月かかりましたが、そこからは徐々に娘さん本人の受診、投薬、入院と進み、状態が落ちつくようになっていきました。
時間はかかりますが、まずは母親に寄り添い信頼関係を築くこと、それを土台に支援がつながることを実感しました。その母親には「ここまでしてくれる人はいなかった。こんな穏やかな幸せがくるなんて思ってもみなかった」と言われ、この言葉は私が活動を続ける励みとなりました。
“ケースは教科書”と言われます。ケースに出会うかどうかは地域での小さな変化に気づくかどうかによります。先輩からは「地域の情報は待つもの」と教わったものですが、これは、住民との信頼関係を築きアンテナを高くしていれば、情報も入ってくるし変化にも気付けるという意味なのでしょうね。また、学校で起こった問題について悩み、対応策を相談した際には「その子に“心”を置いて生活していたら、自ずと手立てが見えてくる」と言われました。これらの言葉は、今では私が、後輩に伝えています。
このように、悩んだときは先輩方から多くのアドバイスが受けられ、結果的に多くのことが学べました。そして何より達成感がありましたよ。
約20年前から続いている「ふれあい給食」でのひとこま
単位民児協の会長になってからは、参加しやすい組織とすることを心掛けてきました。委員の皆さんには「仕事ではなく活動だから、都合が悪ければ、この日は難しいって言っていいのよ」「一人じゃないのよ」と声を掛けています。それぞれ介護や、孫の送迎をはじめ家庭の都合もあると思うので、できる時にできる人が、と協力し合うことが大切だと思います。私も50代の頃は委員活動だけにならないように、趣味のお稽古や旅行なども楽しみましたから。
小平市民生委員児童委員協議会の会長になって12年になりますが、2期目には都民連の指定民児協事業を受け「班活動の推進」に取り組みました。そこで地区割の見直しを念頭に、1年目は近隣委員4~5名で、担当地区を把握するためのまち歩きから始め、3年をかけて担当地区の面積の大小の是正、受け持ち人数の平均化を進めました。その結果、増員した地区や、統合で減員となった地区もありました。3期目には、主任児童委員について、受け持つ学校数や、各地区の定数の平均化のため、小平市全体の地区割の見直しもしたんです。委員の地区移動もお願いすることになったので、それぞれ該当委員には事前に説明し、ご了解を得るようにしました。
それから定例会については、自分の地区の日程では都合が悪い場合、代わりに他地区の定例会に行って良いことにしています。他の委員が参加すると、互いの地区の状況が分かって勉強になるというメリットもあるんですよ。そのため小平市の定例会出席率は、ほぼ100%だと思います。
そして9年前から副会長として参加している都民連の会議では、器の大きな方々の小気味の良い会話に触れたことが良い思い出です。家庭で主婦業をしているだけでは出合わない経験ですからね。
地域をまわって「こんにちは。元気ですか?」と声を掛けると、地元の方々が「おかげさまでね」という言葉で返してくれるんです。「じゃあ、また何かあったらね」と話して失礼するだけのこともありますが、この「おかげさま」という言葉に、私はとても支えられてきました。
今期で退任となりますが、約30年間を振り返ると、途中で辞めたいと思ったことが一度も無いんです。会う人皆に恵まれていたのでしょうね。活動を続けながら、仲間と一緒にランチに行ったり、カラオケに行ったりもして、楽しい時間でした。新しく委員になる方には、ゆっくり馴染んで、ご自分らしい活動をと声を掛けたいです。
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