民生児童委員の想いをお伝えします。
日野市民生委員・児童委員協議会 会長

私は、大阪府岸和田市に、6人姉兄の末っ子として生まれました。
皆さんもご存じの通り、岸和田市では毎年9月にだんじり祭りが行われます。大人から子どもまで、町内のみんなが力を合わせなければ成し遂げられない一大行事ですから、自然と「助け合う」という精神が根付いていた地域だったと思います。そういうところで育ったこともあり、ご近所で支え合うっていうのは普通なんだな、と思って過ごしてきました。
母もまた、とても世話好きな人で、ご近所の相談に乗ったり、時には若い男女のご縁をつなぐ仲人役までしていました。まるで結婚相談所のようでしょう(笑)そういう母の姿を見て育った子ども時代でしたね。
小さい頃は、家に訪ねてきた方に、「あら、啓ちゃんいたの!気付かなかったわ」と言われるほど大人しい子どもでした。年の離れた姉兄だったので、一番年の近い姉の後ろを、いつもくっついて歩いていましたね。姉に遊びに置いて行かれた日には、寂しくてシクシク泣いていたものです。
そんな幼少期でしたので、小学校に入ってからも、問題の答えが分かっていてもなかなか手を挙げられない子でした。けれど、先生や周りの友達に背中を押され、学級委員を任されたことが大きな転機になり、いろいろなことができるようになりましたね。
その後も周囲に押される形で、中学校や高校では生徒会やクラス委員などを務めました。自分では前に出るタイプではないと思っていたのに、不思議なことに、気づけばいつも周りが背中を押してくれていました。
大学卒業後は、地元大阪の会社に就職しました。母からはよく「あなたは頼まれたら断れない性格ね」と言われていましたが、社会人になってからもそれは変わらず、職場でも労働組合の青年婦人部長を任されました。主人と出会ったのも、その活動がきっかけでしたね。
結婚後もしばらくは共働きを続けましたが、子どもを授かったことを機に、子育てに専念することにしました。産休に入るタイミングで退職することもできたのかなと思いますが、自分の中で「やり切った!」という決着がつかないとやめられず、近くに住む両親や姉に支えてもらいながら、出産後も区切りつくまで勤め上げましたね。
その後、2人目の子育て中に主人の転勤が決まり、生まれ育った大阪から、いまの西東京市に引っ越すことが決まりました。
西東京市に引っ越してきてからは、社宅での暮らしでした。周りも転勤族で地元を離れてきた方ばかりでしたから、自然と助け合う関係が生まれ、用事があれば子どもを預かり合い、料理を持ち寄って一緒に食卓を囲む。そんな温かな日々を6年間過ごしました。
その後、再び主人の異動で日野市へ。新しい土地での生活が始まると、今度は子どもを通じてPTA活動に深く関わることになりました。クラスのまとめ役であるクラス委員や、書記などを務めましたが、毎年役員決めの場面は独特の空気がありましたね。誰もが下を向き、口を貝のように閉ざしてしまう、あの雰囲気が苦手でね。だからといって、積極的に手を挙げるわけでもないのですが、どうにかしなくちゃいけないんじゃないかと思い、結局「分かりました、家族に相談してみます」と口にしてしまうんです。
家に持ち帰ると、主人や子どもたちは反対することはなく、「お母さんがやれると思うなら、やってみたら」と背中を押してくれました。それで、自信があったわけではなかったのですが、やってみようかなという気持ちになったんですよね。そこがおせっかい気質というか、母譲りの世話焼き気質が出たのかもしれません。
そうして最後は会長を務めるほど、3人の子どもが中学校を卒業するまでPTA活動とは長く関わることになりました。
PTAを退くことになり、これでひと段落。次は何をしようかな、と思っていたところ、活動の中で顔見知りになった前任の主任児童委員さんに声を掛けていただいたことがきっかけで、今度は主任児童委員として子どもに関わることになりました。
名前や存在は知っていましたが、具体的にどのような活動をするのかはよく分からないままのスタートでしたが、委嘱を受けて間もなく、さまざまな事例が次々と舞い込みました。DV家庭、ごみ屋敷問題、不登校など、ニュースでしか知り得ないようなことに戸惑いながらも、一つひとつのケースに向き合い、現場に育ててもらったように感じます。
主任児童委員に委嘱されて12年経った頃には、自分なりにやり切ったという思いがありました。
ところがそのタイミングで、今度は民生児童委員(区域担当)にならないかと声を掛けられました。ここでもまた、断れない性格が出てしまいましたね。あとは、一度足を踏み入れると、なかなか辞めるきっかけをつかめないところがあって、結局、お引き受けすることにしました。
そうして区域担当として一期を終えた頃、今度は所属している単位民児協の会長を決める場面で、当時の会長さんに「後任の打診をみんなに断られた。山岸さん、あなたが頼みなんだ」と言われてしまい…本当に、よく性格を見抜かれているものです。区域担当2期目にして、単位民児協会長をお引き受けすることになりました。
そんなこんなで現在は、市の代表会長を務めています。昔の定例会は、先輩が来る30分前には会場に着くようにだとか、きちんとした格好で行くようにだとかありましたけれど、私は民児協の仲間が意見を言いやすい雰囲気を作れるようにと心掛けています。決めるべきことはきちんと決める。けれどみんなが安心して話せる場でありたい。みんなが集まる時間は、少しでも前向きで、できれば楽しいものであってほしい、そう思っています。そういうところは、やっぱり関西人気質なのかもしれません。
民生児童委員活動を始めてから、24年が経ちました。生活の中心ではないけれど、長年連れ添ってきた存在ですから、もう外すことのできない大切な人生の1パーツです。私は今期で退任を迎えるため、もうカウントダウンは始まっています。最後まで地域の声に耳を傾け、自分の担当地域を大切にしていきたいと思っています。
実は現在、委員活動と並行して、介護福祉士としてデイサービスで働いています。そして最近始めた趣味が、フルートです。いくつになっても学ぶことは面白いものですね。
そんな感じで、仕事、家族、民生児童委員活動、そして趣味と、どれか一つに偏らないよう、バランスよく取り組んでいます。どれか一つのことだけを抱え込むと、どうしても行き詰ってしまう。だからこそ、気持ちを切り替えながらいろんなことを平行して続けてきました。もしかすると、それが私の「頼まれたら断れない・区切りがつくまで辞められない」性格につながっているのかもしれませんね。
ページの先頭へ
ページトップへ